2011年10月21日金曜日

『女子学生、渡辺京二に会いに行く』

先週、『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(亜紀書房)という本を読んだ。非常に面白かった。
津田塾大学と大学院の学生が熊本市在住の歴史家にして思想家、渡辺京二氏を訪ね、彼女らが書いた卒業論文を話題に渡辺氏と語り合い、その内容をライブ感覚で採録した本である。相当、成績優秀と思われる女子大生が自らの卒論のテーマ、概要を提示して、最近の彼女らの「関心のありよう」「問題意識」を提示し、それに対して、博学、先鋭、明晰な渡辺氏が遠慮なく、縦横無尽に論を展開する。その仕掛けがまず面白かった。
詳しいことはこの本を買って(1600円プラス税です)読んでいただくしかないが、それだけで終わってしまえば「肩透かし」。話の取っ掛かりとして、僕が面白かった点を箇条書きにしてみる。

①多分、世間では才媛、才女と呼ばれている女子大生の「問題意識」の程度がわかる。
彼女らの提起した「問題」が、ことごとく渡辺氏に論破される。口調はやさしく丁寧だが、結論は厳しい。「自己実現?それは出世主義のこと?」「自己実現なんていうのは、エリートのバイアスのかかった非常に過酷な要求なんです」「無名に埋没せよ」「生涯をかけて本を読み続けなさい」などと、単刀直入、しかもいわれてみればもっともな言葉が続く。
才媛、才女らにとっては文字通り「目からうろこが落ちる」話であり、結論。僕の感想をいえば「天狗の鼻をへし折られた」状況だが、それを彼女たちが「うれしい体験」と受け止めているところがすがすがしい。これは僕の勝手な思い込みかもしれないが、今の世は、学校の成績がいい、偏差値が高い、というだけで通りがいい。それゆえに、彼女らは多分、こと「学校の勉強」に関する限り、コテンパンに論破されたことなど一度もなかったのではないか。それゆえに、自分の問題提起が知性と教養を持った大人にぼこぼこにされることに、ある種の爽快感を覚えたのではないか。だからこそ、読者に自分たちの「青臭さ」「未熟さ」が丸ごと公開されても、これを「本にまとめ、出版すること」の方が大切に思われたのではないか。

 実際、いま大学で学ぶ学生諸君が、大学の教員に自分たちの問題提起を丸ごと受け止めてもらう機会、それを正面から叩きのめされる機会なんて、ほとんどないのではないか。もちろん、試験という機会に叩きのめされることはあっても、面と向かって「君はこの研究をまとめるにあたってどんな本を読みましたか」とか、「フィールドワークなんていってるけど、本当に相手の本音を引き出すことが出来たと思いますか」とか言うことを、そのレポートをもとにぼこぼこにされる機会なんてあるのだろうか。もし、師弟関係なんてものがあったとしても、それはオブラートにくるんだような「擬似」師弟関係ではないのか。大学の講師として、学生諸君に接するたびに、そういう疑問を持っている僕にとっては、彼女らが本当に「骨のある」相手に出会い、やり込められて、爽快感を感じる理由がわかるような気がする。

この文章を目にした学生諸君。まずはこの本を読んで欲しい。そして、興味を覚えたら渡辺京二さんの「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー)、「江戸という幻景」(弦書房)、「民衆という幻像」「維新の夢」(ともに、ちくま学芸文庫)、「黒船前夜」(洋泉社)などを読んでほしい。君たちの知的好奇心を刺激する何かが必ずあるはずだ。これらを読んだだけで、大学に入ってよかったという手ごたえが確実に感じられるはずだ。
(石)